創業~1970年
1919年(大正8年)
1921年(大正10年)
神田多町一丁目(現在の内神田三丁目)に「ニシザワ薬局」が開業
大正10年創業時のニシザワ薬局。当時は現在のビルの一角にあたる小さな店舗でした。
創業者は西沢寛衣(前列右端)。明治薬科大学を卒業後、ニシザワ薬局を開業。まだ和装が主流だった大正時代、ひとり背広で写真に写っています。
1922年(大正11年)
1927年(昭和2年)
ニシザワビル竣工
近隣の土地を買い取って土地を拡大し、ニシザワビルを建設。
3階建ての当時としては先進的なビルだったそうです。
時期は定かではありませんが、「戦前に飛行機から安売りチラシを撒いて集客をしていたのを聞いた」という証言もあり、この頃、積極的な営業をしていた様子が伺えます。
当時のニシザワビル
1939年(昭和14年)
1945年(昭和20年)
空襲を逃れる
激しくなる戦争の中、神田にも容赦なくB29の焼夷弾が降り注ぎました。
ニシザワ薬局のある多町一丁目も戦火に見舞われました。
まだ幼かった2代目社長靖司の証言によると、「店のすぐ近くに焼夷弾が落ちたが不発弾だったため一命をとりとめた」とのこと。その後に疎開のため神田を離れ、戦火を生き延びました。
1949年(昭和24年)
株式会社ニシザワ 設立
戦後、ニシザワ薬局を株式会社として登記しました。
2年後の1951年に制定された「医薬分業法(通称)」により、医師が患者に処方せんを交付し、薬局の薬剤師がその処方せんに基づき調剤を行い、それぞれの専門分野で業務を分担することで、国民医療の質的向上を図りました。
1953年(昭和28年)
ニシザワビル改築
ニシザワビルを改築。
店舗部分がガラス戸になり、屋根には大きな看板が掲げられています。
当時のニシザワビル
1960年代(昭和35~44年)
高度経済成長期
東京オリンピックが開催され、高度経済成長期を迎える1960年代。
ニシザワ薬局も盛況だったようです。
ビジネス街の神田駅周辺では、午前中で仕事が終わる土曜日が書き入れ時でした。金曜日に特売のチラシを配り、土曜日の午後、仕事帰りのサラリーマンに薬・健康食品・栄養ドリンク・石鹸、洗剤などを販売していました。筋肉痛をおさえる「サロメチール」などは、月に2000本もの仕入れをしていたそうです。
1965(昭和40)年の神田祭の写真
大好き神田より
1971年~現在まで
1971年(昭和46年)
創立50周年 ニシザワビルを竣工
6階建てのニシザワビルを建設しました。竣工時はお世話になっている関係者を招き、盛大なパーティをひらきました。
創立50周年記念パーティ 左から2人目が寛衣
1974年(昭和49年)
二代目社長 西沢靖司 が代表取締役に就任
創業者である寛衣が社長を退き、二代目である靖司が代表取締役に就任しました。靖司は、今でいう「働き方改革」を実施。有給休暇の増加や給与面などの、従業員の待遇を改善。医薬分業化時代を見据えて薬剤師を増員するなど、先進的な経営や店作りを取り入れました。
日本全国の名だたる大手薬局のご子息・ご令嬢が経営を学ぶためにニシザワ薬局に入社して修行したこともありました。
二代目社長 西沢靖司
1980年代(昭和55~64年)
医薬分業が進み、処方せん薬局の必要性が高まる
1980年代になると、医薬分業が定着し、市販薬の販売が中心だったニシザワ薬局も徐々に調剤薬局としての役割を拡大していきます。
また、薬や健康食品などだけでなく、化粧品売り場も併設し、店内にはさまざまな製薬メーカー、化粧品メーカーの販売員が勤務するようになりました。
1980年代の店内
1987年(昭和62年)
お茶の水駅前薬局を開局
医薬分業化の波にのり、1982年に開設された東京医科歯科大学 医学部付属病院をはじめとした近隣の医療機関の処方箋に応需する「お茶の水駅前薬局」を開局しました。
現在まで30年余りにわたって東京医科歯科大学 医学部附属病院の患者様にご利用いただいています。
お茶の水駅前薬局
1999年(平成11年)
現社長・西沢寛造がニシザワに入社
東京薬科大学卒業後、薬剤師として青森の調剤薬局にて現場を学び、ニシザワに入社しました。青森の調剤薬局は日本初の24時間開局薬局で、深夜に急な症状で相談にこられるお客さまも多くいらっしゃいました。
当時のニシザワ薬局
2012年(平成24年)
西沢寛造が代表取締役に就任
現社長の西沢寛造が代表取締役に就任。地域活動にも積極的に参加し、近隣医療機関との連携を深めて医療知識を深め、より質の高いサービス提供できるよう、心がけています。
西沢寛造
社史編纂協力:村山操(1960年入社)